【アレックス視点】
――嫌われたって構わなかったのだ、あの事を言えば。
翌日から、わたし ――俺は後悔に苛まれていた。でも、一方で、これで良かったのだと安堵している部分もある。矛盾した気持ちを抱えて過ごす日々はぎこちなく、日に日にメンバーからの視線が痛々しくなってくる。ただ、アバッキオは驚くほどに普通だった。逆にこちらが面食らってしまうほどに。だからつい油断してしまったのかもしれない。
「アバッキオ、水を取ってくれますか」
リストランテで、アバッキオの傍にあったピッチャーを取ってもらおうと、なんとか平然を装って言った。もう、長いこと口をきいていない気がした。たった数日のことなのに、長く感じる自分が嫌だった。特に声が高ぶることなく言えたと思ったのに、それに気付いたときのアバッキオの態度に、こちらがドキリとした。アバッキオは弾かれたかのようにピッチャーを手にして、わたしのグラスに注いでくれようとした。こっちはそこまでは求めていなかったので、ピッチャーを受け取ろうとしたものだから、見事に“事故”が起こって、テーブルが水浸しになった。
「おいおい、何やってんだよー」
隣でフーゴと勉強をしていたナランチャが、慌ててノートを避難させる。フーゴが溜め息をつく。ジョルノがウェイターに拭くものを頼みに席を離れて行った。なぜかミスタはそれを笑いながら見ている。ブチャラティも意味ありげな表情だ。ひっくり返ったピッチャーを取ろうと手を伸ばすと、同じことを考えていたのか、アバッキオの手がふいに触れた。
――何をやってるんだ、俺は今、男なんだ。
アバッキオの手を振り払うようにピッチャーを起こすと、とりあえずあたりにあった紙ナプキンで零れた水を押さえた。ジョルノが戻って来ると、それを受け取って拭いた。
「悪かった、アバッキオ。ジョルノも。ナランチャ、ノートは濡れてないか?」
「ああ、大丈夫だぜ。アレックスこそ大丈夫かよ?」
スタンドの出し過ぎで疲れてんじゃあねぇの~?と続くミスタに、そうかもしれないと、溜め息をついたときには、スタンドは解除されて女性に戻っていた。アバッキオの視線が痛い。これだから本当は解除したくなかった。今だってずっと迷っている。チームとの和解のために解除すべきか、アバッキオを意識しないために男性でいるべきなのかを。
一通り拭き終わったところで、ダスターを持っていこうとしたのはアバッキオだった。人目に付く場所へ出るならスタンドを発動させなくてはならない、自分への配慮だろう。
「アレックス、悪かったな。俺が持っていくから貸せ」
恐る恐る、アバッキオの手にダスターを載せた。手が触れないようにダスターを摘まんで、アバッキオの大きな掌に載せたつもりだったのに。アバッキオの長い指が、わたしの手に届いてしまって掠っていくと、なぜかドキリとした。それはアバッキオもだったのか。ぎゅっと握られたダスターから、吸わせたはずの水が滴って落ちる。
「おいおいアバッキオ、せっかくアレックスが拭いたっていうのによォ」
「アバッキオの服まで濡れちまってるぜェ?」
ミスタとナランチャにそう言われるも、アバッキオは然程気にしていないようにダスターを返しに行った。フーゴが呆れた顔で、わたしにひそひそと言った。
「まったく、今度は何だって言うんです?」
「何もない……はずだった」
「はずって……アバッキオはなんであんな…」
「こっちが訊きたい」
訊きたい、と言いつつも分かっていた。アバッキオも普通を装っていただけなのに。眠らせていた想いがあんなことで刺激されたとは、思ってもみなかったのだ。子どもの初恋じゃああるまいしと思いつつ、その様子に揺さぶられている自分も嫌だった。
――アバッキオ…忘れてくれるんじゃあなかったのか。
その日は仕事も少なかったので、リストランテに居辛かったわたしはさっさと自宅に引き上げた。
――アバッキオはわたしを知らないんだ……我慢しながら、既に棄てちゃったこと。よりにもよって金を貰った相手に。しかも、一度じゃあない。
シャワーを浴びる際、自分の女の身体を見ると、考えずにはいられなかった。フーゴにも、アバッキオにも、一体どこまで伝わったのだろう。身体を売ろうとしたけど、無理だったという言い方は、どっちにも取れそうで、狡い言い方をしたなと思った。フーゴには半ば勢いだったが、彼には構わないと思って言ったはずだったのに、それが誰かに……アバッキオに伝わることはないかと心配している自分がいる。
――後悔したことはなかったはずなのに……クソッ……今になってどうして…。
生きるために必要、というのは時に惨いことだ。正当な理由に見えて、取り返しのつかないものを、簡単に奪ったり棄てたりしてしまう。警官を殴らなければ社会的には死ななかっただろう。でも、そこまでして守ったはずの自分の尊厳を、あっさり金で明け渡した。数回それを繰り返したところで耐えられなくなり、ブチャラティを探し始めた。最初はそれも必要だったのだと思っていたが、どうして始めからブチャラティを頼らなかったのかと思うことが、ここのところ増えていた。
――アバッキオはこんなわたしを知れば軽蔑するだろう……わたしは正義も純潔も貫いたわけじゃあない……。
だが、一方でそれは彼を拒絶するのに最も良い方法にも思えた。ギャング同士の恋愛にそもそも将来があるわけでもない。こんな面倒くさい過去を抱える女なら尚更で、性欲の処理さえ出来そうにない女なのだ。仕事の足枷にもなるだろう。今だってぎくしゃくしているが、むしろ嫌われた方が改善するかもしれない。良いこと尽くしの方法だ。それなのに……。
――どうしてこんなにも、胸が苦しいんだろう…。
結局その夜は、なかなか寝付けなかった。
* * *
「……どーしてこんな大所帯?」
フーゴに問うた。10歳くらいの少年を見下ろして、フーゴは溜め息をついたのち、答えてくれた。
「それは僕が訊きたいですよ」
昨日は自分が投げかけた言葉を、今度はフーゴに返されてしまった。今日は再びフーゴと組むことになっていた。フーゴはスタンドが実践向きでないので、頭脳的な指示役や連絡役などを任されることも多いが、そんな訳で潜入役の自分と組むことになったのである。任務の場所が少し遠く、潜入のため既に子どもに変身していたのもあって、彼が車を出してくれることになっていた。しかし、そこでついでに乗せていけと言ったのはミスタ、ナランチャ、そしてアバッキオである。
「ナランチャ、ミスタ、後ろに乗るぞ」
「ええーッ、その乗り方じゃあめちゃくちゃ狭いじゃあないかよッ」
アバッキオが男3人で後部座席に行くよう指示すると、ナランチャが不満をこぼす。なぜかそれにムッとしてしまった。遠まわしに気遣っているのが、どこか気が食わない。
「いいですよ、アバッキオが一番大きいんですから、助手席に行けば」
そう言い、後部座席のドアに手を掛ける自分を、アバッキオが見つめているのに気付いていた。
「それにしてもかわいいなァ、お前。俺の膝の上乗るか?」
「やめとく。10歳だからそこそこデカくて重いんですよ?」
ミスタのいつものジョークをかわしつつ、車に乗り込んだ。席に座ると、引き摺っていた服の裾をまくりあげて、折り込む。
「ですけど、気を付けてください。人通りがないということは、誰かに何をされても気付く人はいませんし、住宅地ですから、家の陰などに引き込まれたら終わりです」
車内で、フーゴは突然、潜入役のわたしに忠告し始める。潜入先は他の組織のアジトだった。周囲からの発見を恐れてか、閑静な住宅街にアジトを構えているらしい。見知らぬ男たちがうろつくと目立つからということで、わたしに白羽の矢が立ったわけだ。住宅街の割には人通りが少ない。そういうヤツらを恐れて、あまり人も出歩かないのかもしれない。とりあえず、わたしは学校帰りの子どもを装うことになっていた。何か動きがあれば、公衆電話などを使って逐一フーゴに伝えていく。
「大丈夫だって。いざとなったらいつもの姿になってボコボコにする。腕だけ大人にすることもできる」
「でも……」
フーゴは口ごもりながら言う。彼にしては珍しい。
「いくらあなたが今、男の子とはいえ……男だって、そういうことで襲われることはあります……」
言いづらそうなフーゴに、遂にこの時が来たと、逆に冷静になって決心することができた。
「いいんだ、フーゴ。既に……穢れてるんだ、一度や二度じゃあない……」
俯きながらも、はっきりと車内に聞こえる声で言った。目を上げると、助手席のアバッキオが、ルームミラーを通してこちらを睨んでいるのが分かった。フーゴは啞然とした後、
「そういうもんじゃあないでしょうッ!」
と、キレ始めたので、慌てたミスタになだめられていた。
「アレックス……いくら今は男だからってよォ、そーゆー言い方をするかよ?」
「事実を言ったまでです、ナランチャ。
とにかく、いつも通り物理攻撃なら問題ないですから」
ナランチャが困り顔で尋ねてきたが、正面を向いたまま答えた。そうしていると、自分とフーゴ以外のメンバーの任務の場所に着いたらしい。3人は降りて行った。どこか戸惑いのある雰囲気にしてしまったのは申し訳なかったが、これで……彼には伝わったはずだ。
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